「国語の文章は感覚的に読むものでなく、論理的に読むものだ」「成績を上げるには、論理的に読めばいい」という通説があります。では、「論理的に読む」とは、一体どういうことなのでしょうか?
辞書的な意味でいえば、「論理的に読む」とは法則的な繋がりを理解しながら読むことです。『ふくしま式』の福島隆史先生は、その法則的な繋がりを、「因果関係」「対比関係」「言い換え」という三つの関係に分類しています。
そういった関係性を意識しながら読むことで、確かに国語の得点率は変わってきます。
なぜなら、国語の問題で問われることは、「なぜですか?/理由を答えなさい(因果関係)」、「どういうことですか?/〇〇について説明しなさい(言い換えの関係)」が、ほとんどだからです。対比関係については、記述問題で「気持ちの変化(以前と今との対比)」といった形で問われたり、空欄補充問題などで考え方を生かすことができたりします。
これらを意識せずに、読書をするように何となく文章を読んでいると、設問に取り掛かったとき、「あれ、問2で聞かれている理由ってなんだったっけ・・・?」となり、本文の二度読み・三度読みが発生してしまうことになります。
「本文のどこに何が書かれていたか」を頭の中に記憶し、問題を効率的に解くためにも、論理的な読み方は大事になります。巷でよく聞く、国語の「線引き」や「読解テクニック」も、論理的な読み方を達成するための一つのツールにあたります。
じゃあ、それって具体的にはどんなツールなんですか? どう使えばいいんですか? という話は、次回の記事に回します。今回は、具体的な方法論に入る前に、大前提として知っておいていただきたいことをお伝えする記事とします。
その大前提とは、「国語の成績を安定させるには、語彙と常識が9割」であるという話です。
国語における「論理力」は、常識的知識に依存している
まず、私は国語において、「本当の意味で」論理的に読める文章はない、と思っています。いきなり冒頭の話と矛盾するような言い方ですみませんが、ちょっと我慢してこの先を読んでみてください。
上記の考え方は、以前、国文学者の石原千秋氏の本を読んだときに得たものです。10年以上前に読んだので、具体的な書名は忘れてしまいましたが、内容を覚えているので紹介します。
たとえば、次のような文章があるとしましょう。
人間は経済成長を進めてきた。しかし、そのことが環境の破壊を引き起こした。我々は自分の利益を追い求める姿勢を改め、自然を保護することを考えなければならない。
(内容の如何は置いておいて)この文章は、私たちからすると、特に論理的な破綻は見受けられないと思います。しかし、1960年代の人たちに、この文章を見せたとすれば、「論理的ではない」と考えるだろう、と石原氏は述べていました。
なぜなら、終戦から15年しか経っていないその頃は、一般論(一般常識)として、「経済成長」は良いことでしかなく、デメリットはないと考えられていた(※)からです。そのため、60年代の人にとっては、【人間は経済成長を推し進めてきた。→しかし、それが環境の破壊を引き起こした】の行間の理屈が抜けているように捉えられて、「わけのわからない文章」と感じてしまうわけです。
(※ その後「公害」の問題が広く知れ渡ることによって、その考えは覆されるのですが)
石原氏は、文章における「論理」は、その時代の人が共通して持つ「常識的な知識や感覚」によって下支えされているものでしかなく、可変的なものだ、と述べていました。
国語と算数の「論理」の違い
石原氏の論からは、文章を論理的に理解するためには、「行間を読むための常識的な知識や感覚(俗に言う「スキーマ」)」が必要不可欠ということがわかります。
上記の点が、国語の「可変の論理」と、算数や数学といった「不可変な論理」との相違点なのです。そのため、自分は、国語は真の意味では論理的な科目ではなく、算数や数学が真に論理的な科目なのだと考えています。
また、国語の場合、行間を読むための常識が必要なだけでなく、そもそも、文章中の「言葉の意味」がわからなければ、論理的に読むも何もなくなってしまいます。以前に書いた「接続詞」の記事の最後の方にも、例として挙げましたが、どれだけ接続詞の論理を理解したところで、文章にある言葉の意味がわからなければ何の役にも立たないわけです。
たまに聞く「同じ論理の科目なんだから、算数ができる子は国語もできるはずだ」という意見について、それは極論かな、と思います。
「語彙・常識」を幅広く身につけなければ、太刀打ちできないのが国語という科目です。算数の場合、「数字」という数の限られたツールを活用すればいいので、そこがラクチンと感じている子もいるはずです。反復演習で定着できるか・できないかの違いもあると思います。国語は、毎回初見の問題に取り組まないといけません。
語彙も常識も、塾では教わらない
では、この事実が中学受験の国語に、どういう影響を及ぼすかについてです。まず、人生経験の少ない10~12歳の子どもにとって、語彙やら、常識的な知識や感覚なんて、本来はそこまで身についているわけがないんですよね。
日本語には言葉が多い。それは、同じ物事を言うのに、いくつも言い方があるからだ。(中略)地位や職業による話し方の違いや、方言による話し方の違いもあり、日本語には言葉の数が多いということになる。
(出典:『国語〈1〉日本語の探検にでかけよう』 桐山久吉 汐文社)
たとえば、この文章は大人なら理解するのはたやすいですが、小4くらいだと理解できる子と、理解できない子にわかれます。「地位や職業による話し方の違い」とか「方言による話し方の違い」が何なのかを、経験から知っている(気づいている)子と、知っていない(気づいていない)子がいるからです。
上記は平易な文章ですが、中学受験の国語のテキストは、基本的には大人向けの本から出題されています。サピックスオープンも合不合判定テストもエグいです。当然、子どもにとって「そんなの知らないよ」という事柄がわんさか出てくるわけです。
そういう状況であるにも関わらず、塾の国語の授業においては、どのくらい文章を読むための常識的な知識や感覚が指導されているのでしょうか? 例外はありますが、ほとんどの場合、それらの「前提」はスルーして、文章の論理的な構造を解説したり、読解テクニックを教えたり、問題の解き方を解説したり、といったことが中心になっていると思います。
それらが塾のノートに書いてあれば、気持ち的には安心する保護者様もいるのかもしれません。大人は既に「語彙」や「常識的な知識や感覚」を身に着けていて、文脈を追えているがゆえに、それらの解説には納得が大きいからです。
しかし、「ちゃんとしたことを教わっている割には、なんか伸びないな・・・」と思われることもあるでしょう。その要因は、子どもに語彙や常識が身についていない、ことにあると考えられます。「大前提」が欠けているわけです。
「語彙」「常識的な知識や感覚」は漢字の学習のように範囲が決まっているものではないので、集団塾のように指導時間が限られた場でスルーする(あるいは、扱う優先順位を低くする)のは、至極当然のことでもあるのです。なんとかして、ご家庭で身に着けていくしかありません。
語彙や常識を身につけるための具体的な方法
今回の記事では、小学生が国語の文章を「論理的に読む」には、一にも二にも「語彙・常識」が必要だということをご説明しました。
語彙を身に着けるためにに大切なのは、とにかく「読書」です。
「語彙の問題集」に取り組むのも良いですが、ただ問題をこなすだけだと、あまり定着しないかもしれません。その言葉を「覚える」つもりで取り組むのではなく、テキストを通して、ご家族と子どもとで会話をし、言葉に対する解像度を変えていくことが大事だと考えています。端的にいえば、文脈や漢字から意味を推測する力を伸ばすということです。
また、とにかくお子様に話をさせることです。言葉を使う機会を増やすことで、語彙力がついていきます。子どもが何か言わんとしているとき、親が先回りして代弁するのではなく、じっと待っていただけると良いと思います。確かに忙しい日常において、「待つ」のは大変なことではあるのですが、少し意識していただくだけでも、お子さまの語彙は変わってくると考えます。
「常識的な知識を身に着けさせるにはどうすればいいか?」については、いずれ記事として書きます。読者様のニーズを考えると、なるべく具体的な方法を書きたいのですが、この手のことは「こうすべきだ」と受験の必勝法的に示してしまえば、本質からは遠ざかってしまうという難しさがあります。しばらくは保留とさせてください。
この記事の第二弾として、論理的に読むためのツール(線引きの仕方や読解テクニック)について書きました。以下のリンクから、ぜひご覧ください。
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