中学受験の家庭教師 鳥山と申します。
前回の記事(『国語の勉強をしても、成績が上がらない理由』)では、国語の成績は、塾やテキストでは鍛えられない能力に左右されるんだよ、という話を書きました。
そして、その能力として、「情報処理力(活字慣れ)」「語彙力」「一般常識力」を挙げました。
今回は、ある程度、上記3技能は身についていることを前提に、「本文は読めているようだが、それでも成績が上がらない」と親御様が感じているケースを想定して、話をしたいと思います。
「文字を読んだ」状態と、「内容を理解した」状態は違う
自分の指導経験上、国語において、「本文は理解できているのに、問題は全然正解できない」というケースは少ないと考えます。
たしかに、最難関校を模した、オール記述問題のテストであれば、「設問の理解ができない」「記述を書くときに、文章の組み立てが上手くいかない」といった要因で、「本文は理解できているのに、問題が全然正解できない」事態は起こりうるでしょう。
ですが、オーソドックスな普通の模試で、そういったことは起こりづらいです。
親御様から「うちの子は、文章は読めているけれど、問題が解けないんですよ」という相談をいただいても、実際に生徒を指導してみると「そもそも、読めてないな」と感じることが多々あります。
要するに、「文字を読んだ」だけの状態と、「内容を理解した」状態というのは、全くの別物ということです。
そして、国語においては、「理解する」ところまで持って行かなければいけません。
このことを、本当の意味でわかっている人は少ないのではないでしょうか。
偉そうな言い方にはなりますが、私から見ると、大人でも「文章を読む = ただ文字を読むこと」になっている「読解力がない」人の割合は多いように感じています。
(もちろん、人の振り見て我が振り直せで、自分も慢心せず、気を付けなければいけないと肝に銘じてはおりますが・・・)
おそらく、ここまで読んで、深く頷いている方と、ピンと来ていない方に大きく分かれる話だと思います。
「内容を理解する」には、「考える」ことが必要
では、「文章内容を理解する」には、どうすればいいのか? といえば、「論説文(説明文)」であれば、シンプルに次のことが言えます。
「この文章は、つまり、何が言いたいんだろう?」、「なぜ、筆者はこんなことを言っているんだろう?」と考えながら読む。
一般的にもよく言われていることで、「当たり前のことでしょ」と感じる方もいるかもしれませんが、実際にはできていない人が多いと思います。
さっき、「文章が読めない大人」の話をしましたが、そういう人でも、新聞や実用書(ノウハウ本)は読めるのではないでしょうか。
それらは、「事実の羅列」であるため、「文字を読む」だけで、一応わかったことにはなるからです。 (※ 注:実際には、「新聞の理解も危うい」大人が多い、という統計データもあるようです)
しかし、新聞や実用書と違い、論説文には「書き手の意見・想い」がこめられます。
意見・想いを読み取るには、文字を追うだけでなく、「『何を言いたいんだろう?』と考える」という思考が必要になります。それが「内容を理解する」ことに繋がるのです。
小5で国語ができなくなる理由
中学受験では、4年生、5年生前半までは国語ができたのに、それ以降、なかなか成績が取れなくなるという現象が見られます。
原因は色々と考えられますが、一つには、読みながら思考していない、ということが考えられます。
すなわち「筆者は、つまり、何が言いたいんだろう?」「なぜ、こんなことを言うのだろう?」と追究する姿勢が甘い場合があるわけです。
塾では、小5前半までは、論説文は「自然環境」や「言語」といった具体的なテーマが出題されます。
しかし、小5後半くらいからは、「哲学」といった、誰かが頭のなかで考えた、抽象的な内容が延々と続くことになります。
そうなったとき、「何が言いたいのか?」を考えながら読まないと、文章の主旨は掴めなくなってしまいます。
また、小5前半までは、文章の構成がきっちりしている。(例:筆者の主張パートと具体例パートがくっきり分かれている / 筆者の言いたいことが繰り返される / 接続詞が多用される 等)
一方、小5後半くらいからは、文章の構成がラフになります。
具体的な例としては、たとえば、純粋な「論説文」ではなくて、「説明的随筆文」が出題されるようになる、ということが挙げられます。
代表的な随筆文である『徒然草』の冒頭の文章を思い出してみてほしいのですが、エッセイ(随筆)とは、誰かが「つれづれ」と書いているものです。
そのため、必ずしも明確な論理構造になっていない場合もあります。
筆者の主張と事実が分けられずに、一つの段落や、一つの文の中に、ごちゃごちゃに存在していて、注意深く追って行かないと、結局、筆者の主張がなんだったのか、よくわからなくなってしまいます。
国語のテクニックを学んでも、パッとしない理由
「読み方のテクニック集」を学んでも、イマイチパッとしないのは、ただ「パターンに当てはめようとしている」だけだから、という理由が考えられます。
大前提として、「この文章を書いた人は、つまり、何が言いたいんだろう?」というように頭が動いていない。
「線を引く」という行為も同様です。線引き指導は、ここまで私が書いたことを充分に理解している大人がやらない限り、子どもに「単なる作業」を強いることになります。
誤解しないでほしいのですが、線引きそのものを否定しているわけではありません。(自分自身が、めちゃくちゃ線を引きながら読むタイプです)
私が言いたいのは、「線を引くときに、思考停止してはいけない」ということです。
無思考の線引きが、毒にも薬にもならないだけならマシなのですが、大人が歪な誘導をかけてしまうと、「文章を読まない子(読めない子)」を作り上げる危険性すら孕んでいるので、ご注意ください。
正しい線の引き方のプロセスは、次のようになります。
「『この文章は、つまり、何が言いたいんだろう?』と考えながら読む」
↓
「『ああ、この部分が言いたいことなんだろうな』と解釈する」
↓
「線を引く」
一方、よくありがちな誤った線の引き方は、次の通りです。
「テクニック本などで、『筆者の主張は、「繰り返し」書かれている』と知る」
↓
「『どんぐり』というキーワードが繰り返し出てきた」
↓
「『どんぐり』を含む文章に線を引く」
これは「読解」ではなく、ただの「反射」に過ぎません。
果たして、「どんぐり」というフレーズが繰り返し出てきているからといって、「どんぐり」を含む文章が、本当に筆者の言いたいことなんでしょうか?
筆者の言いたいことなんて、文脈から判断するしかないんじゃないでしょうか?
こういうたとえ方をすると、ムッとする読者様もいると思いますが、ただキーワードに反応して線を引くのは、「夜中に羽虫が光の方に向かっていく」のと同じようなものです。思考停止してしまっています。
私の意見をざっくり言うならば、「頭を使わず、ラクしようとしちゃだめですよ」ということですね。
「文章を理解する」ための、具体的なトレーニング方法
では、「この文章は、つまり、何が言いたいんだろう?」「なぜ、こんなことを言っているんだろう?」と考える習慣をつけるための、具体的な方法を説明します。
文章の要約
まず、「文章の要約」をさせることです。
古くから伝わる国語の勉強法に「『天声人語(新聞の社説)』の要約をする」というものがあるのですが、これは理にかなっています。
ニュースのような事実の羅列ではない「意見文」を通して、「つまり、筆者は何が言いたいのか?」を考えることに繋がるからです。
しかし、「要約」の勉強は難点が2つあります。
1つ目は、国語が苦手な子にとっては、そもそも何を書けばいいかわからなくて、手が動かない。
2つ目は、添削する側に読解力(「つまり、筆者は何が言いたいのか?」を理解する力)がないと、適切なトレーニングとして成立しない、という点です。
逆に、上記2点がクリアできているなら、要約の学習をどんどん続けると良いでしょう。ちなみに、素材文は天声人語ではなく、塾のテキストでも構いません。
塾で習った文章内容を、口頭で説明させる
わが家では、いきなり「要約」するのは難しそうだな・・・という場合は、以下の方法を取ってみてください。
塾で国語の授業があった日、子どもが帰宅したら「今日読んだ文章は、どんな話だったの?」と聞いて、説明させる。
一度、塾で解説を受けている文章なので、いきなり初見の文章を要約させるよりも、ぐっとハードルは下がります。また、口頭でのやり取りなので、親御さんも対応しやすいと思います。
大切なのは、計算練習などと同じで、習慣として継続することです。国語が苦手な家庭ほど、ちょっとだけやって、すぐやめてしまうことが多いです。
それは、「何かを暗記したら、まとめテストでの10点アップにつながる」という他科目と違って、成果が出ているかどうかがわかりづらいからだと思います。
ですが、要約のトレーニングは、そういった「パターンに当てはめる」学習ではなく、「頭を良くする」ための取り組みですから、すぐに成果が出ないのなんて至極当然のことです。腹をくくって、続けてみてください。
プロ家庭教師としての、鳥山の指導法
質問を通して、「考えながら読む」習慣をつけさせる
ちなみに、私が国語の指導をする場合、稀な例外(※)を除いて、必ず、本文の内容確認をするようにしています。(※ 授業時間が、1時間など極端に短いとき / 入試直前期で読み方は身についているので、設問理解や解き方の確認だけしたいとき 等)
まず、本文全体をいくつかの意味段落にわけて、その内容を生徒に説明させるのですが、「筆者の主張を掴むポイントになる箇所」については、しつこく質問します。
たとえば、「本文に『人間に[生きる意味]はない』と書かれているけれど、筆者が、そう考える理由は何でしょうか?」と問いかけます。
国語のレベルが高い子は、この質問に対して、自分の言葉で抽象化して説明できます。
しかし、学習が進んでいない子の場合、黙ってしまうので、「本文のどの箇所に、筆者の主張が書いてあるの?」と誘導していきます。
それでも答えられない場合は、「筆者が『人間が[生きる意味]はない』と考える理由は、〇行目~△行目に書いてあるよ」と、こちらで答えを教えてしまいます。
そのうえで、「なぜ、筆者はそう思うのか? 理由を考えながら、もう一度、文章を読み直してみてね」と伝えますね。
要するに、(1) 国語の指導の目的と、(2) 気を付けている点は、「(1) 質問を通して、『考えながら読む』習慣づけを試みる」、「 (2) その子のレベルや、その場での反応に応じて、質問を適宜変えていく」、ということになります。
難解な文章は「具体的・身近な話」に落とし込む
小6にも入ると、専門用語・難解な抽象語だらけで、「読解力のある大人」でも、読み進めるのがきつい論説文が出題されるようになります。(入試期間などには、大量に読むことになるので、私も結構しんどい・・・w)
小学生が、その手の文章を読んで、一発で理解できるわけがないので、かみ砕いて説明します。
本来、具体例は、筆者の主張をくわしく・わかりやすく説明するものです。そのため、「筆者が何を言いたいのか」わからないときは、具体例を確認する必要があります。
ですが、難解な文章においては、「具体例が、全く具体的ではない(抽象的すぎる)」という恐ろしい状態w になっていることが、よくあるものです。
ですので、もっと具体的な話題、その子にとって理解できるレベルの身近な話題に落とし込むようにします。
そういう思考過程を見せることで、生徒の国語力がもっと成熟したときに、私と同じ発想でものを考えることができるようになるケースもありますので。
また、論説文には「頻出のテーマ・展開」があるので、それを理解するためにも、難解な文章であっても、本文内容を理解しておくことは大事です。
時が経って、テストで似たような文章が出てきたとき、「前に読んだ話と、似た話じゃん」と気づけば、読み進めるのはいくらか楽になるでしょう。
一方、難解な文章が出題されたときに、「文章なんて理解できなくても、問題が解ければいいから」、「具体例は読み飛ばしても、何とかなるから」という声かけをする大人もいます。
最悪、自分も入試直前期には、そういう手段を取ることもありますが、あくまで「最終手段」であり、「博打」です。
早いうちにする声かけでは、絶対にありません。思考力やテーマ理解を積み重ねる機会を捨てることになります。一定レベル以上の難関校に合格するのは、難しくなるでしょう。
繰り返しにはなりますが、「頭を使わず、ラクしようとしちゃだめですよ」という言葉で、この記事をしめさせていただきます。
次回の記事では、今回お伝えした考え方(「この文章は、つまり、何が言いたいんだろう?」と考えること)を踏まえて、実際に「問題を解く」際のプロセスについて、語りたいと思います。
家庭教師の生徒さんを募集しております。(指導科目は国語・社会)
詳しくは以下の「筆者プロフィール」のページをご覧くださいませ。
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