中学受験小説『ベテルギウスの疾走』が衝撃的すぎた -ネタバレあり解説・感想

親御様向け・中学受験の書籍レビュー

こんにちは。中学受験の家庭教師 鳥山と申します。

今回の記事では、中学受験小説『ベテルギウスの疾走』(針谷卓史 を紹介します。

この作品は、『三田文學 2025年夏・秋合併号(162号)』に掲載されており、私が知る限り、中学受験が絡む小説としては、唯一の「純文学」作品です。

同じ中学受験小説でも、よく巷で話題にのぼる『翼の翼』『金の角持つ子どもたち』などは、「娯楽小説(大衆小説)」に当たります。

中学受験を通した教育虐待を扱った『翼の翼』を、「娯楽小説」といわれると、違和感を覚える方もいるでしょう。

しかし、文学の分野でいう「娯楽」とは、文字通りの「楽しい」という意味ではありません。そうではなく、

・ 簡単でわかりやすい
・  読み手の共感を誘う
・ ストーリー展開に起伏がある
・ 読んでいるときはしんどくても、読み終わればすぐに日常に戻れる

このようなことを指します。

一方で、今回紹介する『ベテルギウスの疾走』は「純文学」なので、上記の4つとは、真逆の要素で構成されています

文章自体は読みやすいが、内容はすんなりと理解できない。

数多くのメタファー(暗喩表現)が盛り込まれており、多くを説明しないので、「何がどうしてこうなる?」と、意味不明に感じられる方もいるはずです。

しかもそれでいて、結末が「かなり不穏」なことだけは、誰にでも読み取れるので、この作品を読んで気分が悪くなる方もいるでしょう。

とはいえ、「純文学」はそういうものです。

中学受験という世俗の塊のような題材(実在する塾や教材も、名前を変えずに登場)を舞台に、見事に哲学性の高いメッセージを盛り込んでいる。個人的には、その鮮烈なギャップに魅力を感じました。

また、中学受験でよくある親の心理も登場しますが、その着地点は、安直なご都合主義をとらず、文学として芯がとおったものでした。

以下、ネタバレありでストーリーを紹介しましょう。

ここまでの記事を読んだうえで、作品が受け入れられそうな方だけ、以下を読み進めてください。

『ベテルギウスの疾走』ストーリー

主人公(父)には、日能研に通う息子がいる。

息子は、塾の先生から、「このところベテルギウスが姿を見せない」と聞いて、「爆発するのではないか」と心配していた。

同時に、街では奇妙なことが起こり始める。猛ダッシュする大人。そしてそれを追いかけるドッペルゲンガー。その様子は、テレビの生中継にすら映りこむようになる。

場面は変わり、居酒屋。主人公はコージンパパ(パパ友)から「中学受験辞めさせようかな」「この間、一緒に観たじゃん、塾の映像。あれ、覚えてる?」と話を振られる。

それは、2月の入試本番の様子。いざ決戦の時。「パパ、ママ行ってきます」と言う少年の面構えは、どこか大人びていて、主人公は涙なしにその映像を観ることができなかった。

なのに、コージンパパは、次のように話した。

「あのノリにはついて行けないなって思ったんだよね」
大体さ、受験の前に、ガンマ線バーストがガッと来てさ、それがどんな感じなのか想像を絶するけど、とにかく地球が滅亡しているかも知れないんだぜ」

主人公は「またその話か」と口では言うが、コージンパパと同様に、「この世界は今まさに終局へ向かっている」という直観は抱いていた。

主人公の息子が中学受験を決めたのは、コージンがきっかけだった。

そのため、主人公は息子がモチベーションを落とさないようにと、コージンがやめたことを知らんぷりしていた。だが、息子に嘘を見抜かれてしまう。

その言動が結果として、息子の言葉「僕はサッカーがやりたい」を無碍にすることにもつながる。今までも息子から聞いていたのに、主人公が本気にしてこなかった発言であった。

主人公は「パパはどうして僕に勉強をさせたいって思うの?」と、まるで幻聴めいた問いを受ける。

その場では「案外これは上手くいったのではないか」と自画自賛できる返答をしたが、時を経て、自分は間違ったことを伝えてしまったのではないかと思うようになる。

そして、世界全体が徐々に変容していく。


『ベテルギウスの疾走』解説と感想

ストーリーの概要を見て、SF的な展開に驚いた方もいるかもしれません。

(1) ベテルギウス(いずれ、超新星爆発するといわれている星)
(2) ドッペルゲンガー
(自分に瓜二つの分身。遭遇すると死ぬという言い伝えがある)

これらの不穏なモチーフが、作中を通してちらほらと登場し、世界で何かが起こっている予感を抱かせます。

しかし、物語は主人公の一人称目線で、落ち着いたトーンで、なぜか「冷静」に語られていく。

主人公の頭の中を占めるのは、目下の中学受験。たとえば、次のような心情が語られます。

息子は、今晩塾で習ったという「季節ごとの星座」について、ものすごい勢いで喋っている。畳みかけるように話をすることで、つい先ほど発覚した成績の改竄および答案用紙の隠蔽を有耶無耶にしようとしているのだろう。

だが、そういう息子の姑息さが鼻について、私の胸はますます塞がれていく。気を抜くと今にも怒りが溢れてしまいそうになるが、そうした感情の爆発こそが、息子を先述のごとき凶行に走らせたのである。

『ベテルギウスの疾走』針谷卓史(三田文學 162号)

こういった親としての迷いは、察するに余りあるものです。

その一方で主人公は、息子やコージンパパが、ベテルギウスの爆発を心配・予見して、真剣に話しているのに取り合いません。

また、ドッペルゲンガーに至っては、親子そろって、テレビ中継や街中で実際に目撃している。その度に、息子は「なに、今の」「僕たち見たよね」と言いますが、主人公は「ご飯を食べなさい」とか、「宿題に集中しろ」といった返答をします。

このシーンは、主人公が、会話をしているようで、していなかったり、他の人には見えているものを、見て見ぬふりをしていることを表しているのではないでしょうか。

何かが変わっていく世界、それに気づく息子。

主人公もなんとなく世界の終末を感じてはいるものの、『日能研』『栄冠への道(日能研の宿題用教材)』といった生活感に溢れるワードがそれを覆い隠していく。

『翼の翼』や『二月の勝者』など、他の中学受験をモチーフにした作品と違って、この小説では、実際の塾名や教材名が出てきます。これは、表現として大成功だと感じました。

こうした俗っぽいワードと、世界の変容を対比させることで、「何かがかみ合っていない」不気味さが、自然と伝わってくるのです。

もちろん、主人公には主人公としての思いがあったことは、丁寧に描写されており、納得感もあります。しかし、文学の世界では、ご都合主義の展開にはなりません。

主人公は、大切なものを見つめなかった結果として、息子に嘘を見抜かれ、息子の言葉をないがしろにしたことを知らしめられ、「うまく言えた」と自画自賛までした発言の意味のなさに気づかされることになります。

作者の表現力は非常に高く、このシーンは緊迫感を持って、心の中に押し入って来ました。

ラストシーンの詳細は伏せたいと思います。ただし、どう解釈しても、救いは感じられない終わり方だったとは述べておきます。

たとえば、『翼の翼』を読んで、「泣けた!」「色々あったけど報われてよかった!」といった感想を抱いた方が、同じ読み方をしてしまうと、卒倒しかねないエンディングです。

同時に、純文学としては一貫性のある表現で、筋は通っています。

主人公の最後の行動は、本人としては「息子への愛情」から動いたつもりだったのでしょう。

子を持つ親が、主人公と同じ事態に直面したら、9割は同じ行動を取るとも思います。だから、私は「主人公の自己犠牲により、息子を救う」ことで終わるのかと考えていました。しかし、それは甘い考えでした。

結局のところ、作中を通して、主人公には哲学的な意味での主体性がなく、精神的な変化もなかったので、そういう人物が救済されることはないという、文学的な論理に沿った終幕だったとも思います。

余談ですが、『ドーン・オブ・ザ・デッド』というホラー映画があります。

公開当時、オープニングが「冒頭10分間で、世界の終わりを表現した」と高く評価されて、実際に私が観たときも秀逸だと感じたのですが、本作『ベテルギウスの疾走』のラストシーンも、この映画に近いものを感じました。

商業的な忖度の必要がない『三田文學』だからこそ発表できた小説でしょう。

中学受験をモチーフにした作品で、こういった挑戦的な作風は二度と生まれないのではないかと思っています。作者の針谷卓史さんを讃えたいです。


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