【中学受験】「ゲームも真剣にやると力になる」って本当?(東大卒プロゲーマー補足記事)

中学受験「あるある」な話題について

前回、中学受験生の読書におすすめの本として、プロゲーマーのときど氏の著書『東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない』を紹介しました。

この本には、「受験とゲームの共通点」「ゲームも真剣にやると力になる」という章があります。視点としては非常に面白いのですが、中学受験生の子どもをお持ちの親御様としては、「あまり見せたくない」と思うかもしれませんねw

一般的に、「ゲームは受験生にとって悪」と言われていますが、ときど氏の個人的な体験としてはまた違うようです。

実は、私も過去には結構ゲームをやっていました。そこで、ゲーマーでもあり、中学受験講師でもある自分が、この章について、私見を述べたいと思います。

「受験とゲームの共通点」「ゲームも真剣にやると力になる」

「受験とゲームの共通点」「ゲームも真剣にやると力になる」、これらの章で書かれているときど氏の見解を、簡潔にまとめましょう。

「受験とゲームの共通点」・・・ゲームでは対戦相手の試合を振り返り、その人向けの対策を徹底的に練るが、それは受験の過去問研究と同じ。

「ゲームも真剣にやると力になる」・・・何かを真剣にやりこむと、たとえゲームであっても、いつの間にか成功するための「型」のようなものが身につく。これが実は、まったく別のことに生かせる「応用力」のタネとなる。

『東大卒プロゲーマー 論理は結局、情熱にかなわない』ときど (PHP新書)

ときど氏は、「『ゲームをやれば賢くなるのだ』と言うつもりはないが、『ゲームをやるからバカになる』わけでもない」と主張しており、それは私もその通りだと思います。

ただ、自分が心配しているのは、万が一にでも、この本を読んだ読解力のない子どもが「ときどが、『ゲームも力になる』って言ってるから、受験生になってもゲーム続ける」などと言い始めることなのです。(まあ、あまり無いかもしれませんがw)

仮にお子さんからこう言われたら、読者のみなさんならどう返しますか? 「屁理屈言うな」と押さえこみたくなる方もいるかもしれませんね。以下に、自分の意見を書いてみます。

「ときど氏がハマっている格闘ゲーム」と、「現代の子どもの好きなソシャゲ」は違う

まず、「ときど氏がハマっている格闘ゲーム」と、「現代の子どもの好きなゲーム=ソシャゲ」は内容がかなり違っています。

ときど氏の主戦場である「格闘ゲーム」は、生きたプレイヤーを相手にするゲームであり、色々と考えながらプレイしないと勝率は上がらないため、確かに思考力が要求されます。

一方で、昨今の子どもが好む、タブレット・スマートフォン向けのゲーム(「ソシャゲ」)には、特に何も考えなくても、ひたすら時間(あるいは、課金)さえかければレベルアップ! というものも多いです。

そのため、ときど氏が言うような対策を立てる必要もなければ、応用力を身に着けるような機会もないわけです。

昔、「探検ドリランド」というGREEのソシャゲが、自分の仲間内で流行ったのですが、「課金で強いカードを得れば、攻撃力が高くなり、強いボスに勝てるようになる」という、たったそれだけのゲームでした。ドリランドの仲間内には筑駒卒の友人がいましたが、彼ですら頭脳を生かす機会は一切なく、ひたすら課金に走っていたのを覚えていますw

現在のソシャゲはもう少しマシ(少しは考える要素がある)にはなっているのですが、根本のシステムは変わりません。

「生身の人間と顔を合わせるゲームセンター」と「人と会わないでプレイするネトゲ」は違う

ときど氏が子ども時代に遊んでいたのは、主に「ゲームセンター」のゲームであった、という点にも着目する必要があります。ゲームセンターであれば、100円を入れてゲームをし、負けたらそこで終わりです。現金が吸い込まれていくため、「ここらでやめとくか」という気分になりやすいし、おこづかいが尽きればそれまでです。

しかし、今流行りのゲームは、家庭用ゲーム機、あるいはタブレット・スマートフォンを使用した「ネットゲーム(ネトゲ)」です。無限にプレイできてしまい、ストッパーになるものがありません。それゆえ、依存しやすいという特徴があります。

また、ときど氏はゲームを通して、上下関係の大切さや、対戦相手の気持ちに配慮することを学んだようです。それも、ゲームセンターという、人と人とが実際に顔を合わせる場であるからこそ、得られた教訓なのだと思います。

対して、流行のネトゲは、対戦相手と直接顔を合わせるわけではありません。そのため、「画面の向こうには生身の人間がいる」ことを忘れがちになるため、躊躇せずに、無礼な言葉や暴言を吐いてしまう人もいます。(俗に言う「イキリ」)

ときど氏も、弱いプレイヤーが多いとされるゲームの大会に出向いて、イキリまくったところ、反感をくらって本気の対策をされてしまい、あえなく負けて大勢の人の前で恥をかく、という経験をしています。最終的には土下座をしたそうですw

しかし、ネトゲの場合は、そういう良い意味で痛い目を見る経験もできません。

もちろん、ネトゲ内で仲間を見つけて、人間関係を築き上げ、コミュニケーションの仕方を学ぶ人もいるので、遊ぶ者の人間性次第と言ってしまえばそれまでなのですが。「どちらにも転ぶ」という時点で、小学生に与えるのは難しいなと思っています。

何からでも学びを見出せる「才能」ある人の特殊事例である

ときど氏の「ゲームでは対戦相手の試合を振り返り、その人向けの対策を徹底的に練るが、それは受験の過去問研究と同じ」という話。

私も、自らのゲームプレイを録画して、「何がダメだったんだろう?」、あるいは「今回は勝てたけど、上手くいったときと、上手くいかなかったときの違いは何だろう?」と振り返っていました。ときど氏は「過去問研究」にたとえていますが、自分の振り返りの過程は、「模試の結果分析や復習」に似ていると考えます。

ですが、ときど氏のそれと、自分のそれとでは、深さの次元が全くもって違うのはよーくわかります(笑)。ときど氏は何にでも、おそらくゲーム以外の、世間的には「くだらない」とされている、どんなことであっても、学びを見出せるタイプなんだと思います。

さまざまな体験を一般化して、教訓を得る。10代という若さで、それができるのはある種の才能でしょう。多くの人が同じことができるかといえば、そうではないように思います。

結論:ゲームから学びを得るには、人間性や学ぶ力の高さが求められる

ときど氏が言うように、ゲームから学べることはあるといえばあるのですが、それを見出すには、本人の人間性や、学ぶ力の高さが求められるのです。また、ソシャゲ、ネトゲには依存といったリスクがあることも念頭に置いて、付き合い方を考える必要がありますね。

万が一にでも、お子さんが「ときどが『ゲームも力になる』って言ってるから、受験生になってもゲーム続ける」などと言い出したら、この記事を見せてあげてくださいw

あと、このような子どもの発言に対して、強引にねじ伏せるのではなく、聞かれた側が私見を伝えることは大事です。話したうえで、相手が納得していないようなら、納得していない部分がどこなのかを話してもらう。当たり前の会話習慣の積み重ねが、子どもの思考力を生むと考えます。

ときど氏が、何事にも学びを見出して大成したのも、おそらく幼少期~中高時代の周囲の人の話し方が影響しているのではないかと思いました。

色々なご家庭を見ていますが、家族の内の誰か(あるいは、全員)が、自分の言いたいことだけを話している。そういうご家庭は結構多いように思うので、振り返ってみていただきたいです。


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