「中学受験において、子どもが勉強しない。どうすればいいのか?」という永遠の問題があります。
私は集団塾講師として中学受験指導を始めましたが、最初は勉強してもらおうとしても上手くいかず、かなり苦しみました。しかし、今では生徒の行動を、多少なりとも変化させることはできるようになったと思います。
そのポイントですが、自分自身の言動に気を使うことです。生徒に自分の話を聞いてもらうために、何に気を付けているのかについて、具体的に書いてみたいと思います。
矛盾した指示や姿勢を見せていないか?
集団塾時代の上長から聞いて納得した話に、「一番子どもに嫌われるのは、『矛盾した指示』」というものがありました。例をいくつか挙げてみます。
1日の課題を「テキストの、○○ページ〜××ページまでやってね」と範囲を決めたのに、早く終わったら「もっとやれ」と言う。
大人としては、「成績をあげるためには、勉強なんてたくさんして当たり前」と思うわけですが、小学生に対して、先を見通す大人のような視野を期待してはいけません。
子どもの場合、最初に決めたこと以上に「やれ」と言われると、「約束を破られた」という感覚になるのだと思います。そして、「どうせやっても、やること増やされるし」とダラダラやるようになったり、全てを放棄したりしだします。課題を増やすなら、子どもの事前確認をとる&一気にではなく徐々に、が基本です。
テストで「すべての問題に手をつけなさい」と言いつつ、「問題文の読み落とし」があると、それを厳しく指摘する。
[テスト問題が要求する処理能力 × その子の処理能力]が噛み合っていないと、「急ぎながらも、全て丁寧に読む」なんて無理です。子どもとしては、理解してくれない大人に反発の気持ちが沸くし、できない自分に対しても惨めな気持ちになるのだと思います。
ちなみに、この例が国語であるならば、「全部の問題に手をつけられなくていいから、丁寧に読みなさい」として、手がつけられた問題の正答率をあげた方がよいです。(状況によりけりですが)
また、以前の記事に親御様の事例として書いたのですが、指示の矛盾だけではなく、大人の考えの定まらなさからの言行不一致も反発を生みます。
「できる他人」と比較していないか?
教え子に対して、大学受験のときの自分や、他の成長の早い受験生と比べてしまっていたこともありました。「何でこんなに努力しないんだろう?」と。
様々な経験を積んで成熟した18歳と、ついこの間まで、ポケモンとドッジボールばかりしていた10〜12歳では、出来る努力の質や量は全然違います。比べること自体が馬鹿馬鹿しすぎです。昔の自分に対して、恥ずかしい気持ちでいっぱいです(笑)。
また、個々が生まれ持った能力差というものがあります。それを伸ばすことはできますが、小学生の期間ではなく、中学や高校で大きく伸びてくる場合も多いです。すなわち、中学受験で成績がいい子というのは、「早い段階で伸びた子」に過ぎません。また、家庭環境が与える影響が、高校受験・大学受験より何倍も大きいです。
ですので、中受において、「本人の努力が足りないから、他人に追いつけない」という考え方を、第一義にしてしまうのは厳禁だと思っています。
もちろん、限られた条件の中でも、少しでも目標に届くように、成績を伸ばす方策を考えるのが私の仕事ではありますし、時と場合によって生徒のお尻も叩きますが、先に書いたことは絶対に忘れないようにしています。受験生が本人なりの努力をしている、そして、少し前の本人と比較して成長しているのならば、まずはそれを認めるべきです。
子どもの「やれない」に目が向いているか?
先述の話につながるのですが、大体、中学受験生の「やらない」は、「やれない」です。若き日の自分は、そこに気がついていませんでした。何かができないときは、本人にとってできない原因があります。語彙力不足・経験不足で、大人から教えられた内容や、指示の意味が理解できていないとか、量が多すぎてキャパオーバーとなっているとか、何か精神的な不安(保護者様が厳しい / 学校でトラブルに見舞われている等)を抱えているとか。
たとえば、よくありがちな「問題文を読んでいない」「記述問題を埋めない」という現象一つにも、様々な原因が考えられるのです。原因が何なのかを分析し、できる限り、障壁を取り除いてあげて、そこで初めて「〇〇しなさい」「粘れ」「あきらめるな」が言えると思います。
一時期、自分がそこまで考えてあげることは過保護で、先々伸びないのではないか? などと悩んだこともありました。しかし、結局は間違っていないと思うようになり、現在の指導もこのスタイルです。
これで行こう、と思うようになった理由は、「中学受験だから」です。
高校受験・大学受験と違って、中学受験は大人が主導の受験です。首都圏の小学生全体においても、約17パーセントしかやらず、日本全体で見たら、もっとやる子なんて少ない。別にやらなかったところで、立派に人間として生きていけます。でも、それをやらせているのです。(もちろん、私立中学校への進学に大きなメリットがあることは理解しています。が、それはこの話題とは別問題です)
何が言いたいかというと、中受というめちゃくちゃ難しいことを、大人主導でやらせている。それなのに、何かができない子に対して、漠然とした指示出しをするのは不義理である、という気持ちが私の根底にあるということです。
あと、これは完全に私のエゴですが、原因を追究し続けないと、自分の指導者としての成長が止まるのではないか? という考えもあります。
子どもを一人の人間として扱えているか?
以前書いた、Twitterの利用法についての記事で、「自分が子どもだとして、親に同じことをされたらどう思うか?」を考えた方がいい、ということを書きました。
でも、書いておいてなんなのですが、難しいことなのかもしれませんね。なぜなら、昔の私が、「自分が子どもだとして、大人に同じことをされたらどう思うか?」と考えてみたところで、「まあ、別に自分なら気にしないし、子どもなんて、我慢して大人の言うこと聞くもんなんじゃないの?」と思っていたはずだからです。
振り返ってみると、自分は子ども時代、周囲の大人からは割と雑な育てられ方や指導をされていたと思います。(指示に矛盾が多かったり、叱る際に理由がなかったりする。成績が伸びないなら「努力が足りない」の一点張りで、解決策を教えてくれない)しかし、「大人というのはそんなもので、子どもが我慢するべきなのだ」という意識が大きかったです。ある種の洗脳めいた諦観なのかもしれません。
しかし、純粋な気持ちにかえって、改めて、「本当に、大人からあんなこと言われてよかった?」「自分のためになった?」と自分自身に問いかけてみると、「そんなことはない」と言えます。
小学校の道徳の時間には「人の気持ちを考えて発言・行動しましょう」と習います。そして、実際に配慮のない言動をした子は、先生から怒られることもあります。それなのに、大人から子どもに対しては感情的になるのも仕方ないとか、「子どもは言うこと聞くものだから」と無思考の命令をしてOK、というのは矛盾ですよね。
大切なのは、子どもを一人の人間として見ることだと思っています。一方的に言うことを聞かせる存在ではなく、他の大人と同様のリスペクトを持ち、コミュニケーションをするということです。私は子供と会話するときの姿勢は、大人とあまり変えていません。もちろん、人によって、使う言葉や表現を変えるようなことはしますが、それは大人相手の会話と同じ配慮です。
相手を人間として見るだけでなく、自分が一人の人間として対峙することも大事です。妙にかっこつけたり、綺麗事は言ったりしないようにしています。「こいつの言うことなら聞いてやってもいいか」と思ってもらいたい、という意図もあります。
中学受験生の指導では、「小学生」としてフォローする部分、「一人の人間」として扱う部分、この使い分けが肝なのかもしれません。
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